皇紀648年 桃の月 丁夜
夜風が桃の甘い香りを乗せて流れていく。犬は鼻をひくつかせ、一つくしゃみをした。
秀元の本陣だ。揺れる篝火が、痩せた犬の体躯を闇に浮かび上がらせる。
犬は酒を手に、秀元のもとへと向かっていた。つまみは塩を、との事だった。
秀元は戦装束のまま床机に腰を下ろし、空を見上げていた。つられて犬も空を見上げる。
「良い月よな」
犬は秀元の足元に跪き、こっくりと頷いた。酒とつまみを渡す。酌は求められるまでは必要ない。秀元は己の間で酒を飲むのを好む。
秀元は盃に酒を注いだ。ととと、と良い音がする。
「褒美ぞ」
まさか己への盃とは思っていなかった犬は、丸い目を更に丸くした。舞い上がって手を伸ばすが、秀元は意地悪く盃を後ろにすいっと引いた。
「ぬしは、犬であろう?」
冷ややかすら感じさせる黒い眼が、楽しげに細められる。
犬は四つん這いになって、秀元の差し出す盃へと顔を伏せた。舌を伸ばし、酒精を舐め取る。
辛い酒だ。舌先が僅かに痛んだ。しかし犬は舐め続けた。じきに体がぼうっと熱くなってくる。
秀元は、くくっと喉を鳴らした。この戯れを気に入ったようだった。
ふいに秀元は盃を投げ捨てた。からからと乾いた音を立てて、盃が地面に転がる。
犬はそれを追った。盃は濡れている。まだ酒が残っているのだ。
伏せて、舌を伸ばす。土のついた盃を、懸命に舐めた。
「ぬしは、まこと良い犬よな」
褒められた。
犬の体は熱くなる。その言葉が、何よりも極上の酒精だった。何よりも一等、犬を気持ちよく酔わせてくれる。
犬は雫を全て舐めとり、盃を咥えて秀元の側へと戻った。その頃には、秀元はこの戯れに飽いていたようで、犬に目もくれずに月を眺めていた。
秀元の気まぐれはいつもの事だ。犬はやや残念に思う己を恥じつつ、秀元の足元に控えた。
秀元に拾われて、もう二十ほどの年月を重ねただろうか。秀元は、辺境のその更に辺境の氷の大地を彷徨い歩いていた己を拾ってくれた。拾い、ただの塵芥であった己を犬にしてくれた。
その日以来、犬の全ては秀元だ。
秀元は塩を手のひらに取り、月を愛でながら盃を傾ける。犬は、こくりと上下する喉仏に喰らいつきたい衝動に駆られてしまった。
あの喉を食い破れば、きっと血潮が溢れだす。赤い赤い血潮だ。それは己の中にもあるものだ。
己の中を流れるものと、秀元の中を流れるもの。それが同じ色をしているのかと思うだけで、犬の飢えは満たされる。
だが同時に、見たくないと思う己もいる。己のような薄汚い雌犬と、秀元の中を流れるものが、同じであるはずがないと思う己もいる。
見たい。見たくない。舐めたい。この牙で秀元の薄い首の皮膚を食い破って。溢れるものが己の歯と舌と口腔と喉を濡らして。
ああでも駄目だ。犬ごときの牙が秀元を汚すところなど見たくない。
だがせめて、その脈動だけでも感じられたら。この舌で。皮膚の下を蠢く脈動だけでも。命の流れだけでも。
駄目だ駄目だ。穢らしい。薄汚い犬の唾液に濡れる秀元などそんな。
桃の花の香りがする。甘い甘い香りだ。同じ香りを共にしている。秀元と。この薄汚い犬が。
「犬」
己を呼ぶその響きが犬を酔わせる。心地良い響きだ。最上の響きだ。
己を呼ぶその二つの文字だけで、犬は秀元が言わんとしている事が分かった。
薄汚い雌犬よ。僅かに笑みを含ませた秀元の声は、そう言っていた。
ひれ伏したくなる。蔑む響きを乗せたその声に。その笑みに。その腕に縋って、すげなく払われてしまいたい。
秀元が腕を振る。その動きだけで、犬は秀元の命を察する。
遠く、剣戟の音がする。人の群れの声がする。焼けるにおいが鼻につく。
夜襲だ。まだ遠い。傭兵団が駐屯している辺りだろう。
ただちに、と目で訴える(犬は言葉を知らない)。
駆け出す犬の背に、秀元の視線は感じられない。犬は振り返らなかったが、秀元はまだ飽くことなく月を愛でているのだろうと思った。
夜で満ちた森を駆ける。二本の脚で駆ける己が情けなかった。
秀元は己を犬と呼ぶ。ならば犬になりたかった。この身全てを犬にしてしまいたかった。
だが四肢で駆けるよりも、二本足の方が速いのだ。悔しいが、仕方ない。
剣戟の音が近い。帝国兵の背が見えた。赤黒く炎に照らされている。
犬は背後から飛び掛った。両の足を帝国兵の腰に回し、腕を首に絡ませる。
帝国兵は犬を振り払おうともがく。その首に、犬はがぶりと喰らいついた。
「ぐぅ、え、え゛、あ゛」
帝国の者どもの使う言葉は理解できないが、悲鳴は誰もが同じかと、犬はそんな事を考えた。
ぶつん、と筋を食いちぎった。帝国兵の血をずるずると音を立てて啜る。
兵士が前のめりに倒れる。犬は蹴り飛ばすがてら兵士から離れた。
口内に残る兵士の皮膚を、べっと吐き出す。帝国兵も傭兵団も、こちらを遠巻きに窺っていた。
タァイ。タァイ。帝国兵が呟く。きっと犬を意味するのだろうが、どうでも良かった。ただ、どうにも口内が生臭かった。
秀元の血潮も、やはり同じ味がするのだろうか。同じように喉を食いちぎれば、生臭さと鉄臭さでこの口腔を満たすのだろうか。
知りたかった。でも知りたくなかった。秀元の血の味が、こんな下賤な男と同じであるはずがない。
そうだ、秀元の血はきっと、芳醇な酒精と同じ味がする。その喉から発せられる『いぬ』の響きと同じように、犬を心地良く酔わしてくれる。
確かめたかった。でも、そんな日はこの先ずっと来なくて良いと犬は思っている。
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