皇紀648年 梅の月 午後
山猫先生。
生徒たちは、私の事をそう呼びます。
私の髪は生来の猫っ毛で、ふわふわと纏まりがなく、髻を結うのも困難です。それにどうにも猫背が直らなくて、いつも少しばかり背を曲げて歩いてしまいます。
それに足音を立てぬように歩く癖もあります。何だか猫みたいに眠たげな目をしている、とも言われた事があります。
だからきっと、生徒たちは私を山猫先生、と呼ぶのでしょう。
しかし一人だけ、私を姓で呼ぶ生徒がおりました。
「山根先生」
「何でしょう」
今年十五になる少女です。彼女はいつも美しい黒髪を、すっきりと一つにまとめています。その黒髪を揺らしながら、彼女は私のもとへと駆け寄ってきます。
「今日のお食事はどうしますか?」
「あなたにお任せしますよ」
「もう、先生ったらいつもそうなんだから」
彼女は凛とした、大人びた雰囲気をしています。どことなく皇家の姫君に面差しが似ています。強気な眼差しなど、特にそうです。
しかし今はぷんと頬を膨らませており、その様は二つ三つほど幼く見えました。
私は思わず笑ってしまいました。すると彼女は馬鹿にされたと思ったのか、眦を吊り上げて怒ってみせます。
「ああ、違います。馬鹿にしたのではありません」
「だったら何ですか。どうして笑うんですか」
「微笑ましいなと思ったのですよ」
「……やっぱり馬鹿にしています」
彼女は、ぷいっとそっぽを向いてしまいました。
へそを曲げられてしまいました。これでは、私の嫌いなものを食事に出されてしまいそうです。困ったな、と私は思います。
手習所に寝泊りする私の世話をしているのは、彼女です。手習所に通う少年少女の中で、一番の年長者である彼女が、私の世話をしているのでした。
また、彼女は先生になりたいとも言っていました。手習所で子供を教えたい、と。彼女なら、私などよりもずっと立派な師匠になるでしょう。字も上手いですし、料理だってとても上手です。
ああ、昨日の干物はとても美味でした。ふっくらとした身と、あの香ばしい匂い。思い出しただけでも涎が出てきてしまいました。
「魚が良いですね」
「またですか?」
「はい、またです」
「もう……。作る身にもなってください。いつも干物ばかりでは、山根先生に悪いのではと思ってしまいますよ」
「私が望んでいるのですから、あなたが悪いと感じる必要はありませんよ」
「そうかもしれませんが……」
「よろしくお願いします」
「わかりました。腕にふるいをかけますよ」
「はい」
仕方がない、といった顔をして、彼女は微笑みました。
透明な笑み、とでも言うのでしょうか。彼女の微笑みは、とても綺麗です。彼女が笑むたび、私は知っている言葉の少なさを残念に感じるのです。
それでは、と一礼して、彼女はお台所へと向かっていきました。
「せーんせー、さよーならー」
「はい、さようなら」
後ろから駆けてきた少年が、ぶんぶんと手を振りながら私を追い抜かしていきます。
そんなに走っては転んでしまいますよ。そう思っていた矢先、少年は角から現れた幼子とぶつかってしまいました。
泣いてしまうか、と思ったけれども、無用の心配でした。二人はぎゃんぎゃんと吼えながら、まるで子犬がじゃれるような喧嘩を始めます。
止めなくても良いでしょう。大きな怪我をする事はありますまい。
私は自室として使っている一室へと向かいました。座布団を敷き、だらしなく胡坐をかきます。
座ってしまうと、やはりどうにも背が曲がってしまいます。だから山猫先生、などと呼ばれてしまうのでしょうね。
ふう、と一息つきます。庭から梅の香りがふんわりと漂ってきて、心がゆるゆるとほどけていくようです。
私がここの手習所で師匠を勤めるようになって、もう数月が経とうとしています。脚を傷めた私は激戦区である辺境から遠ざかり、故郷でもある片田舎のこの村にやってきました。
私が幼い頃を過ごしたこの村は、今も変わらず穏やかです。
手習所の柱には、昔つけた傷がありました。先生が私の背を測ってくれた傷跡です。柱には他にもたくさん傷があって、ここを巣立っていった生徒たちの健やかさを私は想いました。
本当に、戦をしている事など思わず忘れてしまいそうになるほどに、ここの時の流れは穏やかです。
今はまだ辺境で帝国を食い止められているようですが、戦火は確実に広がりを見せています。いえ、実際に目にしたわけではありません。先日頂いた文から推察したまでです。
文を頂く度に、私は焦燥に駆られます。わけもなく叫びだしたいような気持ちになるのです。ここで、手習を教えている場合ではないと感じます。
いいえ、私が教えているのは手習だけはありません。
私は幼い少年少女に、人の殺し方を教えています。
それは心得であったりします。実際に稽古をつけたりもします。
戦は、どれほど長引くか分かりません。中央から、他の地方から、援軍は送られています。ですが流石は大帝国《蔡》です。恐るべき物量です。いくら増援しようとも、それを凌駕する物量で攻めてきます。
護りの要である辺境がもし仮に落ちてしまえば、必ずや戦火はすぐに広がります。
その際の戦力は、少しでも多い方が良いのです。
だから私は教えます。
戦いなさい。
皇国を護りなさい。
そう、幼い少年少女に教えているのです。
元より私は、戦う以外に物を知りません。そんな私が教えられるのは、戦いくらいのものなのです。
梅の香りが心地良いです。柔らかな春風はまだどこかに冬の気配を残していて、少しだけ肌寒さを感じます。
どこかで小鳥が鳴いています。まろみを帯びた午後の日差しが、庭の木々を包み込んでいます。
やはり、私の居場所はここではない。
ひらりと手のひらに落ちてきた白梅の花弁に、私はそう強く感じました。
「山根先生、お茶が入りましたよ」
彼女が庭からやってきました。
「……先生?」
「どうしました」
「いえ……」
彼女は、少しだけ怯えたような表情をしていました。
私は彼女のために、縁側に座布団を用意してやりました。彼女はどことなく緊張した面持ちで、腰をおろします。
「ああ、美味しいお茶ですね」
緑茶の苦味が心地良いです。
ひらひらと、白梅の花弁が風に舞っています。
吹き抜ける風に、彼女は髪を押さえて目を閉じました。
ひらひら。ひらひら。
その瞼の上に、花弁が舞い落ちます。
美しい少女です。凛と澄んだ眼が清廉だと思います。
彼女がどうか、この美しさを損ないませんように。
たとえ人を手にかけようとも、強く美しく生きてほしいと、私は思います。殺せ護れと教えているくせに、私は勝手にもそう思います。
彼女の手料理を食べられるのが、今日で最後かと思えば残念です。
辺境公殿。
鬼秀元殿。
我が主殿。
今宵、猫はあなたの元へ戻ります。
脚は以前と同じように動きません。しかし必ずや、獣衆の猫に恥じぬ働きをしてみせましょう。
どうぞお側で、戦わせてくださいませ。
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