皇紀648年 菜の月 黄昏時
もう何人斬ったか知れぬ。又佐の太刀は血と油でぎらぎらと濡れ光り、太刀としての用を成さない。
だが又佐は満足していた。己の魂が吼え猛っているのが分かる。結局己は、どこまでも鬼又佐なのだ。
又佐の周囲は蔡国軍の屍で埋め尽くされていた。一間ほど離れた位置から、若い兵士がこちらを窺っている。
兵士が何か呟いた。ツァイ・ナル・ワン・イー。いい加減に聞き飽きた異国の言葉だ。おそらくは蔡国万歳。そう言っているのだと思う。
又佐は太刀を投げ捨て、近くの屍の手から剣を奪った。この太刀は長年の連れ合いだったが未練は無い。太刀は斬るもの。斬れなくなった太刀に用は無い。
兵士が叫びながらこちらに向かってくる。上段に振りかぶり、叫ぶ。ツァイ・ナル・ワン・イー。ツァイ・ナル・ワン・イー。
途中、兵士は同胞であった屍に躓いた。前のめりに転ぶ。甲冑がガシャンと派手な音を立てた。
烏が鳴きながら血霞の中を羽ばたいていく。兵士は立ちあがろうともがいている。又佐はゆっくりと兵士のもとへ歩み進む。
仰向きになった兵士がこちらを見上げる。何かを言ったが、その意味は分からなかった。いや、命乞いをされている事は理解していたが、聞きいれる必要は無かった。
剣を兵士の胸元に突き立てる。ぎゃっと鳴いて、兵士は剣を抜こうと両手で剣を掴んだ。その両の手のひらから血が滴るのを、又佐はぼんやりと見ていた。
しばらく兵士はびくびくと痙攣していたが、やがて動かなくなった。刺した剣はそのままにしておいた。墓標のつもりなどさらさらなかった。ただ抜くのが面倒だったのだ。
その辺りに落ちていた太刀を、又佐は拾い上げた。己の体には、もう数え切れぬほどの矢傷がある。創傷がある。目は霞んでよく見えていない。
甲冑は重いばかりだったので、先程脱ぎ捨てた。どこに捨てたかは分からない。屍の山に埋もれてしまった。
死が近い事は分かっていた。だが行く場所があった。又佐は秀元のいる本陣を目指して歩きだした。
流石は大帝国
烏が屍の目玉をほじくっている。秀元に猫と呼ばれていた男だった。猫のように光る目を秀元は愛でていた。
その目はもう烏の胃袋の中だ。それも良いだろう。猫の目玉はやがて烏の糞になって、地面に還る。それは、中々に良い事だ。
重い体を引きずり進む。脚がもう上がらない。しかし行かねばなるまい。秀元のもとへと、行かねばなるまい。
そのうちに軍声が近づいてきた。本陣はもうすぐだ。
目が霞む。だがそれでも、又佐の眼球は秀元の姿を鮮明に映し出した。秀元は蔡国軍に取り囲まれていた。その身には矢が幾本も刺さっている。
己と同じだ。
同じ矢姿だ。
又佐は何だか、笑い出したいような気分だった。
秀元がかぶっていたはずの兜は見当たらなかった。髪は乱れ、血に濡れる頬に張り付いている。
秀元の足元には犬が転がっていた。犬は長い舌を、だらりと口外へはみ出させていた。手には太刀を持ったままだった。
秀元は兵士と斬り結び、そして兵士の首を跳ねた。ごろごろと転がる首を、兵士は半ば呆然と見送っている。
本陣に立つ皇国人は、既にもう秀元ただ一人だ。一人の人間が何故ここまでに、と蔡国軍は驚きを隠せないようだった。
蔡国の者は知らないのだ。その男は鬼秀元と呼ばれた男。鬼又佐を飼い馴らした男。鬼又佐がただ一人、忠誠を捧げた男。
ツァイ・ナル・ワン・イー。揶揄するように秀元が言った。血で汚れた面に笑みを浮かべ、周囲を見回す。
首を無くした兵士の体が傾いで、横様に倒れた。すると視界が開けたのだろう、秀元が又佐の姿に気がついた。
秀元は僅かに眉をあげ、笑ってみせた。
「又佐」
来い、とたなごころを天に向けて、秀元は又佐を招く。
蔡国軍が又佐に気付いた。騒ぎながら、こちらに駆けてくる。
又佐は吼えた。鬼の咆哮だ。びりびりと大気が揺れる。兵士は歩みを止め、遠巻きに又佐を窺っている。
矢が射掛けられる。胸に刺さる。脚に、腕に刺さる。それでも又佐は歩んだ。秀元が来いと言ったからだ。
秀元に、矢が射掛けられようとしていた。又佐は渾身の力を振り絞り、駆けた。秀元は笑っている。
矢が放たれる。秀元は笑っている。
又佐は刃を、秀元の首に滑らした。
血が噴き出して、又佐の顔をべったりと濡らしていく。生ぬるい。秀元は笑っている。
矢が又佐の喉に刺さった。痛みは感じなかった。
秀元の体が傾ぐ。それを受け止めた又佐は膝をついた。ごぼごぼと汚らしい音を立てながら、秀元の喉から血が零れ落ちている。
濡れた赤い唇が、名前を紡いだ。秀元の唇は、確かに又佐の名を呼んだ。赤く汚れた唇は、まるで紅を刷いたかのようだった。
喉の矢を抜く。ひゅうと空気が通る音がして、そして、ごぼりと音を垂れ流して、又佐の口からも血が溢れだす。
抱きとめた秀元の体から、体温が抜け落ちていくのが感じられた。己の体もまた、どうにもひやりと冷たいようだ。
どよめく蔡国軍の声も、もう遠い。それで良い。最期に聞いた音は、己の名。秀元が吐きだした又佐の響き。それで良い。
こちらに兵士が向かってくる。首を落としにきたのだろう。
秀元の手には、太刀が握られたままだ。又佐はその腕を持ち上げた。手を重ね、刃を、己の首に滑らせる。
皮膚を裂く感触がした。己の首から流れる血が又佐と秀元の腕を伝い、秀元の身体の上に零れ落ちる。
この首はくれてやらない。この首を落とすのは、秀元の役目だ。そして、秀元の首を落とすのは、又佐の役目だ。
それが、二人の交わした約定だった。
力の緩んだ秀元の手から、又佐は太刀を取った。固く握り、そのまま倒れる。
又佐の握った秀元の太刀が、秀元の首を断った。転がる首に手を伸ばし、髪を掴む。引き寄せて、強く抱いた。
強く、掻き抱いた。
- →皇紀648年 菜の月 更夜 Auf die Wange Wohlgefallen,
- 戻