私の女子力レベルは低い
やすりできれいに磨いた爪に、私はふうっと息を吹きかけた。ちょうどお風呂から上がってきたお兄ちゃんが、髪を拭きながら私の隣に座った。ソファーがぎしっと軋む。
「多恵子も女になったな」
「セクハラやめてよ」
「すまん」
お兄ちゃんの事だから、別にセクハラのつもりで言ってるんじゃないと思うけど。多分。それに私だって本気でセクハラされたとか思ってないし。形式上の、兄妹喧嘩みたいな感じ。というか喧嘩ですらないけど。
うん、ピカピカ。
居間の蛍光灯にかざすみたいにして、両手の指を広げる。あとはネイルオイルで磨けば完璧だ。
ほんとはマニキュア塗りたいんだけど、もし楽器にマニキュアついちゃったりしたら嫌だしね。それに、剥がれてきたら汚くなるし。
だったら、爪そのものをきれいにピカピカにしようと、私にも一応備わっていたらしい女子力を発揮してみたのだ。
こういうのは恥ずかしいような感じもするけど、女の子なんだなーって気分にもなって、楽しい感じもする。でもやっぱりちょっと、照れくさいのが勝つかな。
私は髪も短いし、日焼けしてて黒いし、どっちかっていったらいわゆる女子力は低いんだと思う。私服はズボン多いし。
なのにどうして低い女子力かき集めて爪磨いたりしてるのかっていったら、最近、……ってほど最近じゃないんだけど、結構前から気になってる人がいるからだ。
何かの雑誌で読んだんだよね。男の人って結構手元見てるって。爪きれいにしてる女の子のこと、可愛いって思うって。
好き、なのかどうかは、正直分かんない。ほんと、気になってるって段階。でも、やっぱり、可愛いって思ってほしいな、って、思うかな、って。
多分、あっちは全然私のことなんて女の子扱いはしてないんだろうけど。いや、女の子だとは思ってるだろうけど、恋愛対象だとは思ってないだろうね。
私なんてきっと、親友の妹、ってポジションだろうね。
んーん、きっとじゃないや。絶対。
ロングの黒髪サラサラの子が好みだって、何かの時に聞いたことがある。それ聞いて髪伸ばそっかな、ってちょっとだけ思ったけど、ショート似合うね可愛いねって、犬っころみたいな笑顔で言うもんだから、私は伸ばす機会を無くしてしまった。ずるい。
上半身裸のまんま片手でバスタオルでがしがし髪を拭きながら、お兄ちゃんは机に置いてたネイルオイルの瓶を、空いてる方の手に取った。
「石鹸」
「良い匂いなんだよ」
石鹸の匂い、嫌いな男の人っていないでしょ? だから。
ふぅん、とあんまし興味なさそうに机に戻された瓶を開けて、私は爪にオイルを乗せていく。爪先に塗りこんでいくと、ピカピカだった爪は更にピカピカになった。嬉しい。
何か言いたげな顔で、お兄ちゃんがちらっとこっちを見てくる。私はそれに気付いてないフリをして、爪を磨く。
私の気持ちを、お兄ちゃんは知ってるのかな。どうなんだろ。
何となくつけてた深夜番組(って、まだ0時回ったばっかりだけど)から、どっと笑い声がして、何となく私は馬鹿にされたみたいな気になってしまった。
同じようにぼけっとテレビを見てたお兄ちゃんが立ちあがる。もう部屋に戻るのかな。ああでもちゃんといつもおやすみって言う人だから、トイレかな。うん、トイレだ。
そしたらちょうど、机の上のお兄ちゃんの携帯が鳴った。
携帯の窓で光る「寺内洋平」の字に、ちょっとだけ心臓が跳ねてしまう。
ど、どうしよう。出た方が良いかな。お兄ちゃんまだ戻ってこないし。うんこでもしてんの? どうしよ。
携帯はまだ音楽を止めない。私はおそるおそる、携帯を手に取る。ボタンを押して、耳に当てた。
「も、もしもし?」
「あれ? あ、おれ番号間違えた? あれ、これ久保さんの番号……です、よね?」
聞いたこと無い男の人の声に、私は慌ててしまう。
「あ、彼女さん、すか?」
「え、と……?」
「あ、ごめんなさい! おれ上野って言いますって、ちょ、洋平さん!? それ電柱すよ!?」
何してるの洋平くん。電柱?
「勝手に出るなよ」
珍しく不機嫌丸出しの声で(お兄ちゃんは顔も声も表情が薄い)お兄ちゃんは私の手から携帯を奪って、耳に当てた。
「もしもし? ……ああ、どうも」
二言三言喋って、お兄ちゃんは電話を切った。そのへんに置いてたTシャツを着て、玄関に向かう。私もその後ろを追いかけた。
「あ、すんません夜中に!」
さっき電話で聞いた声だった。上野さん? は、小声で叫ぶみたいな感じで情けない顔をして言った。肩にはずるずるに崩れた洋平くんを担いでいた。ほとんど引きずるみたいにして洋平くんを歩かせつつ、玄関口に向かってくる。
「あーもー洋平さん、自分で歩いてくださいよ」
「んー」
ぐてんぐてんに酔っ払った洋平くんが生返事をする。赤くなった顔で私を見て、へらっと笑った。
「あー、多恵子ちゃんだー。ただいまー」
「お、おかえり……」
ふにゃふにゃのまんま、洋平くんがお兄ちゃんに渡される。
「一基もただいまー」
「おかえり。酔いすぎ」
「んー……」
お兄ちゃんの肩に腕を回すようにさせて洋平くんを渡してから、上野さん?(だよね)は、おっきな溜息をついた。
「あー、重かった……。いきなりすんません久保さん。噂はかねがね洋平さんから聞いてるすよ」
確かにイケメンだー、とにこにこしてる上野さんを横目に、お兄ちゃんは担いだ洋平くんを見た。何を言ったんだ噂って何だ、って顔。
「えっと、彼女さんすか?」
「妹だ。いや、妹ですけど」
「あ、敬語じゃなくて良いすよー。おれのが年下だし。そっか妹さんか。かわいいすね」
……ええと。こういう時何て言ったら良いんだろう。大学生(だよね、多分)の男の人って、可愛いって気軽に言いすぎ。洋平くんもだけど。お世辞だとしても、言われる方は結構どぎまぎするんだから。
「あ! 色目とかナンパとかじゃないんで!」
「あいさつ代わりに人の妹を口説くなよ」
「すんません」
上野さんはふわふわした茶色の髪をかき混ぜて苦笑した。あ、犬っぽい。洋平くんも犬っぽいけど。洋平くんは柴犬とかの和犬系統だけど、上野さんはゴールデンとかそんな感じ。
何かおかしいの。
思わずくすっと笑ってしまった私に、上野さんはもう一回すんません、って頭を下げた。私は首を振る。
「で、何なんだこの屍は」
と、お兄ちゃんは顎で洋平くんを示す。
「やあ、バイトの面子で飲みだったんすけどね。洋平さん何か今日ピッチはやくて。で、それっす」
それ、と上野さんは楽しそうにへらへら酔ってる洋平くんを手のひらで示した。
「家まで送るっすよーって言ったら、おれんちここだからーって言うもんだから。で、連れてきました」
あー肩凝ったー、と上野さんは肩を回している。
「……なるほど」
お兄ちゃんは担いだ洋平くんを見て、ふっと目元を和らげた。……そういう柔らかい感じで笑ってると、格好良いなあこの人って思う。我が兄ながらモテるの分かるよ。
おかえり、ともう一度言ったお兄ちゃんの声には、ちょっとだけ照れ隠しみたいな音が有った。
生返事をする洋平くんが、ぼそりと低い声で「石鹸」と漏らす。
「何か、石鹸の匂いする」
思わずどきっとしてしまった。
うん、分かってるよ。私じゃないよね。お兄ちゃんお風呂上りだから、きっとその所為。
「じゃ、おれ帰るんで。夜中にお騒がせしてすんませんした」
妹さんもまたね、って手を振られる。どうしたら良いんだろ。ええと、とりあえず無視しちゃ悪いから、私も控えめに手をひらひらさせた。
「おいこら洋平、寝るなよ。歩け」
「無ー理ー」
「寝るなら部屋まで待て」
「んー」
ずるずると洋平くんが引きずられていくその隣に私は並んだ。洋平くん運びで手伝えそうなことはないから、とりあえず進路の障害物を避けておくことにする。
……おれんちここだから、か。
そっか。洋平くん、そう思ってくれてるんだ。そっかぁ。
なけなしの女子力を発揮した指先で、私は赤くなった洋平くんの顔をつつく。何か良い匂いする、ってむにむにと言ってくれた。
でも、私の恋にすらなっていないこの気持ちには、まだ気付いてくれなくて良いよ。
おれんち、か。
じゃあ私のこと、自分の妹みたいに思ってくれてるって、そう思っても良いんだよね?
親友の妹、じゃなくて、妹みたいに、って。
なら、それで良いや。
今は、とりあえずね。